大阪城や姫路城など
豊臣秀吉が築いた&攻略した城
【GOOD!いちおし】
テレビ朝日グッド!モーニング「Good!いちおし」のコーナーで紹介された内容をご紹介しています。
豊臣秀吉が築いた&攻略した城
| 豊臣秀吉が関わった大阪城や姫路城は今とは全く違う姿でした。 なぜ現在のような城になったのか、復元イラストと共にその歴史を紹介します。 |
豊臣秀吉が築いた城と攻め落とした城
今回の「GOOD!イチオシ」では、豊臣秀吉と城の関係を特集。
姫路城、大阪城、肥前名護屋城、鳥取城を中心に、秀吉の築城術や城攻めの特徴が紹介されました。
解説したのは、城に関する書籍を多数手がける「かみゆ歴史編集部」代表の滝沢弘康さんです。
秀吉時代の姫路城は白くなかった
姫路城といえば、真っ白な姿から「白鷺城」とも呼ばれる世界文化遺産です。
しかし、秀吉が城主だった頃の姫路城は、現在とはまったく違う姿でした。
秀吉が築いた天守は三重だったとされ、壁には「下見板張り」と呼ばれる板が張られていたため、全体的に黒っぽい印象だったといいます。
現在の白く壮大な姫路城へ大改修したのは、関ヶ原の戦い後に城主となった池田輝政です。
姫路は山陽道の要衝で、中国、四国、九州の外様大名を監視するうえでも重要な土地でした。
そこで幕府の権威を示すため、巨大な城へと生まれ変わったのです。
ただし秀吉が天守を築いた1580年頃は、天守そのものがまだ珍しい時代でした。
信長の安土城や明智光秀の坂本城など、限られた武将しか持てなかったため、秀吉の姫路城も当時としては最先端の城だったといえます。
豊臣時代の大阪城は黒く巨大だった
秀吉が1583年に築城を始めた大阪城も、現在の姿とは大きく異なります。
豊臣時代の天守は黒漆が塗られ、そこに家紋や金色の装飾が施された豪華な姿だったと考えられています。
高さは約40mとされ、推定約30mだった安土城を上回る巨大さでした。
秀吉は山崎の戦いで明智光秀を倒し、その後、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ります。
信長の後継者として天下を目指す象徴が、大阪城だったのです。
豊臣時代の大阪城は大坂の陣で焼失し、その後、徳川幕府が石垣を埋め、新しい大阪城を築きました。
ところが昭和30年代の調査で、地下から豊臣時代の石垣が発見されます。
豊臣期の石垣は自然石を組み合わせる「野面積み」。
一方、徳川期は石を四角く加工し、隙間なく積む「切り込み接ぎ」が使われており、石垣技術の進歩も見ることができます。
全国の大名が集まった肥前名護屋城
佐賀県唐津市に築かれた肥前名護屋城は、朝鮮出兵の拠点として造られました。
周辺には徳川家康、前田利家、伊達政宗など全国の有力大名が陣屋を構え、一時は日本の政治機能が大阪や京都から移ったともいえる場所でした。
秀吉は大名たちをもてなすため、豪華な「黄金の茶室」と、竹などを使った質素な「草庵茶室」を使い分けたといいます。
城の入口には巨大な「鏡石」も置かれました。
大きな石を見せつけることで、訪れた大名や家臣に城主の権力を示す狙いがあったと考えられています。
秀吉の死後、名護屋城は廃城となります。
その後、島原の乱で廃城となっていた原城が一揆勢に利用されたことから、幕府は九州各地の古い城を意図的に壊す「破却」を進めました。
名護屋城の崩れた石垣は、その歴史そのものとして現在も残されています。
鳥取城では兵糧攻めを得意とした秀吉
秀吉は築城だけでなく、城攻めの名人としても知られています。
特徴は力任せに攻めるのではなく、城を包囲して食料や物資の補給路を断ち、相手が降伏するのを待つ戦い方でした。
その代表が鳥取城攻めです。
秀吉は鳥取城を包囲し、兵糧攻めを行いました。
その際、本陣として築いたのが「太閤ヶ平」です。
近年では、この太閤ヶ平は秀吉自身のためだけではなく、織田信長を迎えるために築かれた可能性も指摘されています。
当時、信長は毛利軍が鳥取城の援軍に来ると予想し、自ら出陣する準備をしていました。
そのため秀吉は、最後の戦いを主君である信長に譲るつもりだったとも考えられています。
しかし実際には、鳥取城側が降伏したため、信長の出陣は実現しませんでした。
姫路城では最新の天守を築き、大阪城では天下人の権威を示し、名護屋城では全国の大名を集め、鳥取城では兵糧攻めを成功させた秀吉。
城を「建物」としてだけでなく、政治や戦いの道具として巧みに使った人物だったことがよくわかります。
GOOD!いちおし
□ バルト海沿岸地域 埋蔵量世界一のものは?
【お天気検定】
□ 海の「プラスチックごみ」最も多くたまるのは?
【エンタメ検定】
□ 綾瀬はるかに起こされた男性のひとことは?
|
「今知っておきたいNEWS検定」「お天気検定」 |
その他番組検定クイズプレゼントの応募方法

お天気検定