三国志研究の権威が解説
「卑弥呼」邪馬台国は畿内にあった?
【GOOD!いちおし】
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卑弥呼 邪馬台国 畿内にあった?
卑弥呼が治めたとされる邪馬台国。
その場所を巡っては、今も多くの説があります。
今回は中国の歴史書に残された記録を手がかりに、専門家の見方を取材しました。
邪馬台国はどこにあった?
魏志倭人伝が描く卑弥呼と倭国の真実
「邪馬台国はどこにあったのか」——
この問いは、100年以上にわたって研究者たちが論争を繰り広げてきた日本史最大のミステリーのひとつです。
そのカギを握るのが、中国の歴史書「三国志」の一部である魏志倭人伝。今回は専門家の見解をもとに、その記述の背景と邪馬台国の位置をめぐる謎に迫ります。
魏志倭人伝とは何か
三国志に隠された倭国の記録
魏志倭人伝とは、中国の正史「三国志」全65巻のうちの一部で、約2000字にわたって倭国(当時の日本)のことが記されています。「魏志倭人伝」という独立した本があるわけではなく、三国志の「魏」の部分に含まれているものです。
この書が書かれた時代は、統一国家「漢」が滅んだ後、魏・呉・蜀の三国が覇権を争っていた時代。
そんな政治的に激しい時代に書かれた書物だからこそ、倭国の記述には当時の中国の思惑が色濃く反映されていると専門家は指摘します。
魏志倭人伝によれば、倭国の位置は「会稽の東治の東に在るべし」とされており、現在の地図で見ると台湾の沖合にあたります。
また当時の地図でも、日本列島の方向がねじれて描かれており、15世紀の朝鮮の地図でも同様のずれが見られます。
これは中国の倭国認識が長年にわたって受け継がれてきた結果だと考えられています。
なぜ倭国の位置は
「でたらめ」に描かれたのか
専門家が注目するのは、この記述が単なる間違いではなく、魏による意図的な「都合のいい描写」だったという点です。
魏にとって最大のライバルは「呉」でした。
かの有名な「赤壁の戦い」で魏は呉の水軍に大敗を喫しており、強力な水軍を持つ呉への対抗策として、東の海上に同盟国が必要でした。
そこで倭国を呉を挟み撃ちにできる位置に置き、さらに「海の民が治める大国」として描くことで、呉に対する牽制力を持たせようとしたというのです。
実際、魏志倭人伝では倭国の規模を「5000里以上」と記しており、中国の1万里に対して半分ほどの大国として表現しています。
位置も大きさも、魏の政治的な都合に合わせて書かれた可能性が高いというわけです。
それでも畿内説が有力な理由
「大率」というひとつの言葉
魏志倭人伝の記述が政治的に歪められたものだとすれば、邪馬台国の場所はどう探ればいいのか。
専門家は「大率(たいそつ)」というひとつの言葉に注目します。
魏志倭人伝には、卑弥呼が九州北部の「伊都国」に大率という役人を派遣したと記されています。
大率の役割は、中国における地方の監察官「刺史(しし)」に相当するものですが、当時の中国の首都圏だけには「司隷校尉(しれいこうい)」という特別な役職が置かれていました。
現在の日本で例えるなら、地方には道府県警察、東京には警視庁が置かれているのと同じ構図です。
つまり、伊都国に置かれた大率が「刺史のようだ」と表現されているということは、伊都国は首都圏ではないことを意味します。
人口300万人規模の都がある場所の周辺には当たらないということになり、これが畿内説を支持する大きな根拠のひとつとなっています。
考古学的な調査結果と合わせて考えると、邪馬台国は畿内にあった可能性が高いというのが専門家の現在の見方です。
なお魏志倭人伝には、当時の人々の暮らしも記されています。
男性は漁の際に体を守るため顔や体に刺青を入れていたこと、食事は器に盛り付けて手で食べていたこと、そして卑弥呼は争いが続く国をまとめた女王で、弟が政治を補佐していたことなどが書き残されています。
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